童歌

「開(ひイら)いた 開いた 何の花(が)開いた 蓮華(れんげ)の花(が)開いた 開いたと思ったら いつの間にか莟(つゥぼ)んだ 莟んだ 莟んだ 何の花が莟んだ 蓮華の花(が)莟んだ 莟んだと思ったら いつの間にか開(ひイら)いた」

蓮華の「花」がといふ部分は「は」が高く「な」が低い。これは上方で生まれた歌ぢやないだらうかと思つた。家にゐたら聞こえて來た童歌で「つぅぼんだ」の部分もさうである。導入の高さから音階が下がるこのメロディーは日本の歌共通のある種の寂びた味はひを出している。いつごろ謠ひ始められた歌なのだらう?

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フェミの最も駄目な部分

伊吹某の著述「檢証・狹山事件」は駄目だ。事實の檢証の仕方は一般的に誰にでも妥當なものなどないのだ。この著者はそこが全く無自覺で、自分の立つ基盤が自分が好んだ價値觀なのだといふことを分かつてゐないのだ。彼は書く。被害者に性体驗はなかつたと考へられると。しかし、何を證擧にといふ疑問が生ずるのである。そのやうなあやふやな事實の檢証態度を以てするのなら、この問題で彼が批判する色んな觀方とまつたく同じ落し穴に陷まつてゐるのである。一方でこのやうな批判がまかり通るのなら、部落關聯の團體の被害者家族への事實かどうか判らぬネガキャンも許されるといふ感が否めないのである。

 

安倍も自民も眺め中

といふか、安倍が良い自民が良いといふ正假名派は、自分が便宜を取つてゐる自覺があればましだが、本當に正統を負ふ氣があるのかな。

クニウロを晒す

別に私はさほどの愛國者ではない。ただ、クニウロの右顧左眄を嗤ふだけである。(クニウロ=QUNIURO=UNIQLO)

證據はここ→http://t.qq.com/p/t/90481058800205

槪念の決定的な缺陷

ここに「一つの言語は音聲と意味內容とを構成要素として成り立つ單位である」といふ前提に據り成り立つ言語學派があつたとしよう。そして、「單位」を設定してあたかも方法論を確立したかのやうな体裁を備え、科學であると、またあらゆる言語を分析できるとして、それまでの言葉の學派と異なる普遍的な指導原理であると主張するとしよう。

ここで注意すべき點は硏究から書き言葉を徹底的に排除してゐる點である。「音聲」を要件にする以上さうなる。然も、私が見たそのやうな學派の講義ノートには「書き言葉は取り扱はない」旨書いてゐるのである。しかし、文體論を手掛けた者もその學派にゐる。彼らの言語は表音文字であるからそれもよいかもしれぬが、我々の言語には適用できない。

それだけなら、よいであらう。彼らの地域の固有性に根差した學としてとどまるのならば。しかし、彼の學派は時代を同じくするあらゆる國の言語を硏究對象にし、彼らの學派の主張の證據集めをしようとした。そこに我々の言葉の學をもその下請けとして組み込まうと策した。かれらはうそぶく、「共時的」な言語の硏究なのだ、と。

飜へつて、彼らのいふ「言語」は對象として、妥當なのか。我々が普通に言ふ言語と乖離してゐないだらうか。手話は入らぬのか、點字は入らぬのか、あるいは仕草、視線、身振り手振りなどを切り離して言語の學は成り立つのか。もし、それらを採り入れるとしたら、そのやうな學派は何をどのやうに變へなければならないか?

我々の言葉の學は下請けにされやうとしたと書いた。どのやうにか? 飜譯書を通じて、感化を受けた者が、自分たちはフィールドワークすらやらぬくせに、指導原理を振り回してゐるのである。そんなに書き言葉を言語でないと言ふのなら、大學での板書も書籍の出版もやらねばよいのである。彼らの言ふ本當の言語である話し言葉だけでやり給へ。

仙水丸の法

江戸時代には大小便を藥の原料に用ゐてゐたやうです。「十二月ノ小べんヲとり、小べんニテ小麥のこ(粉)をしめし、うつばん(打板)ニテのして ひぼ(も)か王(わ)ノ如ニきりよく ほし(す)べし」と「仙水丸」といふ藥の製法を書いた文獻があります。また「らい(癩)病の妙亞藥」として「このくし(す)りのとりようハ仙水丸ノ通りのの大べん、小べんヲとり米ノこ(粉)ト大べんトねり合(あわせ)而やきかめい(燒甁)ニ入(いれ)くろやきニいだしこ(粉)ニし(す)べし」ともあります。(括弧內は釜石市敎育委員會編纂の「三浦命助獄中記 二番てうめん 三番てうめん」より)。

賣春を巡る非難の矛先

「賣春は女性差別である」といふ物の言ひ方には、ぢやあどのやうに差別がなされるのかといふ疑問が付きまとひます。「不潔」「ふしだら」といふ感覺は分かります。では、なぜさうかといふと、最終的に貞操を男の側が守らないといふ妻からの恨みがこの言葉に込められてゐると感ぜられます。それは、結婚したら、男は妻一人とだけしか、性交してはならないといふ近代的一夫一妻制に發する考へでせう。

しかし、ある種のフェミニズムにはこれには絶對に乘れない。なぜなら、夫婦の制度といふものが女性差別であると考へるからです。そこで「女性が自分の意志で賣春するのは自由」といふ何でも自己決定といふ理屈を立てる。これは非常に自己決定・自己責任原則を追求したものなのですが、契約を通した管理賣春はすべてダメといふ敎義を採る。

管理賣春自体、歷史的に一夫一妻制に基づく賣春への罪惡視の中で生まれた槪念です。だから、彼ら彼女らは自分たちが本來乘ることが出來ない考へ方を無意識なのか、何なのか、つまみ食いしてゐることになります。これが出來るのは彼女らが非難の矛先にするのが、違法とされ、そしてろくな人間がゐないとされる賣春業者だからです。まあ、賤業といふのはかういふことかと。

そのやうなフェミニストに「俺は管理賣春を女性差別だと思はない」などと言つたらどうなるのでせうね。彼らは反論せざるを得ないでせう。しかし、契約を結ぶ女性の自由意思といふのはどうなるのか、そしてもう片方の相手である業者はその自由意思を認めるべきではないのかと問えば、まともな答へは返って來ないでせう。また「買春」をする男性も女性の自由意思を認めるべきでないかもしてみたい質問ですね。

酷薄なフェミニズムを私は好きません。彼女らはジェンダーの上にあぐらを搔いてあまりにも多くの人を傷つけました。セクハラだ、DVだ、ジェンダーフリーだといつて夫婦間のことをひつ搔き回して結婚を敵視する。一方で彼らの管理賣春への非難は、女性の自己決定を阻害するのに、傳統的な家族を守る考へに沿つてゐるためか、支持者獲得に役立つ道具となつてゐるのです。

そして、近代の結婚觀からくる女性差別としての賣春は不利益を被る側のが誰なのかといふことを考へるに怒りと非難の應酬が激しく行はれ混亂があるやうに思うのです。

膚受之愬

子張問明、子曰、浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂明也已矣、膚受之愬、不行焉、可謂遠也已矣、

子張、明を問ふ、子の日はく、浸潤の譖(そし)り、膚受の愬(うつた)へ、行はれざる、明と謂ふべきのみ、浸潤の譖り、膚受の愬へ、行はれざる、遠しと謂ふべきのみ。

(金谷治譯注岩波文庫『論語』P.229、讀み下し文の假名は改める)

世の訴えごとは言擧げされがちで、お淚頂戴が伴いがちだが、それを聞きながら雰圍氣に流されずに判斷できたら、聰明であると言へる。

再稼働賛成の保守たちへ

かういふのは公開の議論の中で決まつてゆくだけまだましだ。集まって歌ひ踊る原發前のデモンストレーションだって、自己顯示だつて衆愚だつて付き物だ。おしくらまんじゅうして、そこに振り回される人たちのエネルギーだつて、人間活動とはそのやうなものであり、政治とはそのやうなものであり、官憲はそれを仕事にしてゐるのであり、そんなことはどうかう言つても始まらぬものです。

ここで問題なのは、現今放射能の害がいまだ風評被害と移住しか、もとを糾して特定できるものがない。しかしそれに對應しつつあるのが日本社會である。

人倫の大本

光仁の御世より眞言・天台のさかりになることを聊(いささか)しるし侍るにつきて、大方の宗々傳來のおもむきを載たり。極てあやまりおほく侍らん、但(ただし)君としてはいづれの宗をも大槪しろしめして捨てられざらんことぞ國家攘災の御はかりことなるべき。菩薩・大士もつかさどる宗あり。我朝の神明をとりわき擁護し給教あり。一宗に志ある人餘宗をそしりいやしむ、大いなるあやまり也。人の機根もしなじな(後半は繰り返し記号)なれば教法も無盡なり。況(いはんや)わが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ、極めたる罪業にや。われは此宗に歸すれども、人は彼宗に心ざす。共に随分の益あるべし。是皆今生一世の値遇にあらず。國の主ともなり、輔政の人ともなりなば、諸教をすてず、機をもらさずして得益のひろからんことを思給べき也。

且(かつ)は佛教にかぎらず、儒・道の二教乃至もろもろの道、いやしき藝までもおこし用ゐるを聖代と云べきなり。凡(おほよそ)男夫は稼穡(かしょく)をつとめてをのれも食し、人にもあたへて飢ざらしめ、女子は紡績をこととしてみづからもき、人をしてあたヽかにならしむ。賤きに似たれども人倫の大本也。(岩波書店『神皇正統記 増鏡』岩佐正校注=國學院大學所藏本<猪熊信男氏旧藏本>を忠実に再現=昭和40年2月5日第一刷、P115~116、平假名部分は原片假名、括弧内は筆者の付記)