さてセクハラとは一體何ぞや

あるツイツター使用者が「セクハラ」は惡であるといふ前提のもとに以下のやうな話を呟いてゐた。すなはち「『セクハラ』といふ事を指摘されると「そんなことない!」と拒絶して仕舞ふ人間がゐる。自分がセクハラをすると思ふのが嫌な潔癖さからだ。しかし人を疵つけることは誰もがするから、潔癖さにこだはるのは如何か。指摘に向き合つて向き合ふ事は恥づべき事ではないし、向き合はないと進步がないのだ」と。

なんたる傲慢であらう。「セクハラ」は惡といふのは現代、法道德上受け入れられてゐることである。その世間による眞なる命題に乘つかるその女(女だつた!)の既得權保守の姿のいやらしさ全開の姿と云つたら!! ではなぜ傲慢なのか。すなはち、法規上細かくこの行爲はセクハラの恐れありと定められてゐるからである。對象が企業經營者だから良いだらうと云ふのは考へが甘い。

男性ならば職場に水着の女のポスターも貼つてはならないと云ふ規制を受けるのである。それは女の感じ方だけを企業社會に貫徹させようとするフエミニズムの支配慾なのである。男性たちの感じ方はどうなるのであらうか? その樣な優位にふんぞり返つて彼女は言つた。

「セクハラの冤罪だけが問題視される處に性差別、セクハラの問題の根深さがある。冤罪は別の角度から問題があるが、こういふ形でセクハラの冤罪だけが取り上げられることに問題がある。セクハラ被害者の抑壓だ」。へえ、あんたも冤罪の被害者になつて見るかい? とも言ひたくなる。

ほとんどの男性が何も言はないが冤罪の被害者なのである。そしてそのセクハラ・フエミニズムが蔓延する中で、自分を僞ることを余儀なくされてゐるのである。以上の話は事實上の話であり、法文の細かい表記を持ち出して云ふのなら、詭弁である。それを言ふのは法匪である。

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