槪念の決定的な缺陷

ここに「一つの言語は音聲と意味內容とを構成要素として成り立つ單位である」といふ前提に據り成り立つ言語學派があつたとしよう。そして、「單位」を設定してあたかも方法論を確立したかのやうな体裁を備え、科學であると、またあらゆる言語を分析できるとして、それまでの言葉の學派と異なる普遍的な指導原理であると主張するとしよう。

ここで注意すべき點は硏究から書き言葉を徹底的に排除してゐる點である。「音聲」を要件にする以上さうなる。然も、私が見たそのやうな學派の講義ノートには「書き言葉は取り扱はない」旨書いてゐるのである。しかし、文體論を手掛けた者もその學派にゐる。彼らの言語は表音文字であるからそれもよいかもしれぬが、我々の言語には適用できない。

それだけなら、よいであらう。彼らの地域の固有性に根差した學としてとどまるのならば。しかし、彼の學派は時代を同じくするあらゆる國の言語を硏究對象にし、彼らの學派の主張の證據集めをしようとした。そこに我々の言葉の學をもその下請けとして組み込まうと策した。かれらはうそぶく、「共時的」な言語の硏究なのだ、と。

飜へつて、彼らのいふ「言語」は對象として、妥當なのか。我々が普通に言ふ言語と乖離してゐないだらうか。手話は入らぬのか、點字は入らぬのか、あるいは仕草、視線、身振り手振りなどを切り離して言語の學は成り立つのか。もし、それらを採り入れるとしたら、そのやうな學派は何をどのやうに變へなければならないか?

我々の言葉の學は下請けにされやうとしたと書いた。どのやうにか? 飜譯書を通じて、感化を受けた者が、自分たちはフィールドワークすらやらぬくせに、指導原理を振り回してゐるのである。そんなに書き言葉を言語でないと言ふのなら、大學での板書も書籍の出版もやらねばよいのである。彼らの言ふ本當の言語である話し言葉だけでやり給へ。

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