メモ

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正しいものへの茶々入れ

論敵・政敵が妥當でないことを言つたかのやうに誤魔化して傳へる技術がある。もとの発言を枕に自說に都合の好い事實を探して來ればたとへそれが的を射ていなくとも讀者は騙せる。以下のコラム筆者は、アメリカ官庁の「高官」と職業上の繫がりを利用した。

千鳥ケ淵戦没者墓苑はアーリントン国立墓地に「最も近い存在だ」――。米国のケリー国務長官とヘーゲル国防長官が千鳥ケ淵墓苑に献花したことに関し、米国防総省高官はこう述べたそうだ。5月の安倍晋三首相の発言と引き比べると、そのメッセージはよくわかる。

http://www.nikkei.com/article/DGXDZO60673550V01C13A0MM8000/

このコラム筆者は、以下を論ふ。

アーリントン墓地はバージニア州にある戦没者慰霊施設。安倍さんは米誌とのインタビューで、靖国神社を同墓地になぞらえて靖国参拝は自然なことだと主張した。

卽ち本當には靖國神社でなく千鳥ヶ淵が本當はアーリントンに當たるものだと云ふ。どういふ理由か?

同墓地のウェブサイトを訪れると、様々な信仰のシンボルが目に入る。政府が用意する墓石に刻むことが可能なシンボルの一覧なのだという。…(筆者略)…それほどに、宗教的な寛容が重んじられているのだ。

一方の靖国は一つの宗教法人であり、同墓地になぞらえるのはやはり無理がある。

墓石に刻めるシンボルの數がどうやらコラム筆者の「宗教的な寛容」を測る基準みたいなのは置いて、「一つの宗教法人」は慰靈を擔ひ得ないと云ふのは極附けに過ぎまい。この新聞と筆者は自分達に都合の好い事実のみ述べ、都合の惡い事實には目を瞑つてゐるといふ點で不公正である。

靖國神社は一宗敎法人であつてもいかなる宗敎の信者であれ、敕命を奉じて非命に斃れた人々を祀つて戰後、一貫して、靈を慰め續けてきた。自分達が信奉する一國の國家の制度から排除するのだとしたら、コラム筆者はどのやうな基準で慰靈施設として容認するのであらうか?

脅迫と實名

7月10日から31日までとあるツヰツタアカウントが知人の居住地を探り当てバラさうとしたので、阻止した。なほ何故かは知らないが、同アカウントは現在リセツトされてをり、私はこの件についてのこの結果に安堵してゐる。

居住地の暴露は、匿名の人間にとつても見過せない脅迫である。どこそこの住所に匿名アカウントがゐると云ふ情報が漏れたとしよう。少なくとも世間からこの樣な思想を持つならかう反應するだらうと云ふ当て擦りを散々にされるだらう。

根據の無い〝ロリコン禁止法〟

子供の裸を扱つた表現について書籍などを持つてゐるだけで罰せようと云ふ動きがある。被寫體などとなる少年少女を傷附けるからだと云ふものが多いが、この論の可笑しさは一體どんなモデルが被害を受けたのかがはつきりしない處だ。

かう云ふ主張が本當なら當然に出版社や寫眞家を相手取つた訴訟などが起こるはずなのだが、一向にそんな氣配はない。そのやうな架空の被害に基く主張は、自分にとつての不快なものを叩くのみの表現叩きである。

私の目にした限りで以前に少女ヌード寫眞集を自分の藝名で出した子供が、大人になり成年週刊誌のグラビアページに出たりしてゐる。その樣な例もあるのに子供を傷附けると云ふ理由で叩くのなら、證據ぐらゐ擧げて欲しいものである。

所謂兒童ポルノに反對する向きにはそれをプライバシー侵害や名譽毀損の表現と同列に論じる人々が多い。が、現實に被害の出てゐるものとさうでないものは峻別する必要がある。根據の無い主張は排除されねばならない。

障礙者雇用のルール

常識が無いので何とも言ひ難いのだが、障礙者を雇用する事が企業の得點になる制度がどうもあるやうだ。以前勤めてゐた會社がそれで障礙のある者は管理者に名乘り出る樣に求めてゐた。

「今まで社會に取り込めてゐなかつた人々を取り込むべし」とする原則を國家の目標として定めようと云ふ人がゐる。それが法人・機關に限つた方針であるにせよ反對である。「できるだけ」と云ふ歯止めを附けるからと言はれても反對である。

しかし、法人・機關を統御する目標は必要なのに、お前は行政の目標を定めてはならないのかと問はれた。これは一つに論點のすり替へである。個々の都道府県市町村が實際の福祉サーヴィスの監督をしてゐる訣でそれは其々になされてゐる。

しかしながら、質問者の論法だと國の目標が無いとそれが出來なくなるさうなのである。こんな論法に附き合はなければならない法はない。そして、それを質問者の行政の専門智識の下駄を穿かせて言はれた日には当惑するしかない。

共同參畫の革命思想

男女は同じ面も異なる面もあらう。全く同じとは言へぬし、全く違ふとも言へぬ。同じ言葉を話すが、話す内容は男と女で違ふ特徴を持つ。2つの性がそれぞれの特徴を生かして人間の歴史をここまで長らえさせてきたのである。

そのやうな認識に立つ者として、私は矢張り、男女共同参畫には反對なのである。

非論理とは何か

前稿で乙武氏の言を理不盡とした。どういふことか? 形式的なものが所謂名誉毀損などの根も葉もないことの流布である。加えてより實質的で文章によく見られるものに、條理に合はぬ非論理がある。乙武氏は「イタリアン入店拒否について」と題した記事で以下の樣に言ふ。

僕が公開したことによって店側に抗議の電話などが行き、業務に支障などきたしていたら、それは本当に申し訳ないし、本意ではない。

記事が何を目的にしてゐるかは不明瞭だが、乙武氏は店側に配慮した自身のマナーの良さをアピールしてゐる。しかし、それが上邊だけのものであることは以下から判る。

客とか、店主とか、そんな関係性を抜きにして、はなから相手を小馬鹿にしたような、見下したような、あの態度が許せなかったのだ。彼の本意がどこにあるにせよ、こちらにそう受け取らせるコミュニケーションに、僕は深く傷つき、腹を立ててしまったのだ。

本当に「業務に支障などきた」すのを心配するのならば、相手の「態度」の惡さを論ふことはない筈だ。惡評を擴めれば抗議だつて來るのは想像に難くない。さらに「こちらにそう受け取らせる」やうな態度が原因で、「本意がどこにあるにせよ」「傷つ」いたのだと被害者であることを印象附ける。

この矛盾が判る人ばかりではなく店舗業務を妨げる可能性が大きい。乙武氏が上記の樣に書くのはそれが判らない讀者を多く抱えてゐるからだと推察する。そのことを心配して差し上げる義理もないのだが、攻撃される店側は辛く、條理に合はない。どの樣な和解があらうとこの文は非論理である。

■追記

さて今囘乙武氏、店主雙方のブログを讀んで恐らく今後の事態の推移はかうならうと云ふ讀み筋が立つた。乙武氏は店主の店に行けないだらう。と云ふのは、店主の事前に聯絡を入れて欲しいと云ふ求めに同意してをり、聯絡するならば今囘の店側の應對を不當とする彼の支持者たちにとつては、乙武氏が折れることを意味し、乙武氏は面子を潰すことになるからだ。だから、よほどの局面の變化がない限り、再訪はない。店の原則を呑ませた店主側の勝ちである。店主のブログは謝つてゐる樣に見えてその一點は守り抜いた。それに對して、つまらぬ繰り言を延々ぐだぐだ書いてゐたのが乙武氏のブログである。

乙武氏らに撥ね返つた物

乙武氏による飮食店への苦情は政治的正しさ(PC)の問題なのかどうかと尋ねられたら、さうだと答へる。彼は「車椅子を理由に入店拒否された」と言ひ「屈辱」だつたと言つてゐるからだ。だから優れて障礙の問題であり、健常者をPCを利用して障礙者の側が理不盡に攻撃した例に他ならない。

斷はつておくが、障礙者福祉(所謂バリアフリー)推進には壞疑的である。だから、この話を枕にその爲の助成金なり人々の手間を増やせと主張する人々に全く同感しない。車椅子が入れぬほどの小さな店に行くのを好む人も、それを營みたいと思ふ人もをり、總ての人が福祉を優先してはゐないのだ。

騷動を利用して世人からバリアフリーへの同意を得ようとする根性は火事場泥棒の樣である。では同等の嫌がらせをお前にしてやると云ふのなら、望むところだ。車椅子生活になる樣に驛から突き落とすと云ふなら、しがみ附いて卷き添えにする。家族を卷き込むなら、他の障礙者に報復する積りだ。

PCの何たるかを訣知り顔で說く人々に求めたいのは、今囘その名のもとに何が行はれたかをよく考へることだ。事は當時者達から離れた。乙武氏、店を支持する側がネツトで睨み合ひを續けてをり、この樣な論爭が今後も起こるであらう。當然ながら私には自らの考へを改める氣は毛頭ない。

低線量被曝の害の科學的實證

http://www.forbes.com/sites/jamesconca/2013/01/11/like-weve-been-saying-radiation-is-not-a-big-deal/

Like We’ve Been Saying — Radiation Is Not A Big Deal

A very big report came out last month with very little fanfare.  It concluded what we in nuclear science have been saying for decades – radiation doses less than about 10 rem (0.1 Sv) are no big deal.

1月11日の記事。「鳴り物もなしに大變大きな意味がある報告が出て、10レム(0.1シーベルト以下)の低線量は大騷ぎするやうな問題がないと結論附けた。何十年も原子科學の論者が言ひ續けてきたことだ。」

さてセクハラとは一體何ぞや

あるツイツター使用者が「セクハラ」は惡であるといふ前提のもとに以下のやうな話を呟いてゐた。すなはち「『セクハラ』といふ事を指摘されると「そんなことない!」と拒絶して仕舞ふ人間がゐる。自分がセクハラをすると思ふのが嫌な潔癖さからだ。しかし人を疵つけることは誰もがするから、潔癖さにこだはるのは如何か。指摘に向き合つて向き合ふ事は恥づべき事ではないし、向き合はないと進步がないのだ」と。

なんたる傲慢であらう。「セクハラ」は惡といふのは現代、法道德上受け入れられてゐることである。その世間による眞なる命題に乘つかるその女(女だつた!)の既得權保守の姿のいやらしさ全開の姿と云つたら!! ではなぜ傲慢なのか。すなはち、法規上細かくこの行爲はセクハラの恐れありと定められてゐるからである。對象が企業經營者だから良いだらうと云ふのは考へが甘い。

男性ならば職場に水着の女のポスターも貼つてはならないと云ふ規制を受けるのである。それは女の感じ方だけを企業社會に貫徹させようとするフエミニズムの支配慾なのである。男性たちの感じ方はどうなるのであらうか? その樣な優位にふんぞり返つて彼女は言つた。

「セクハラの冤罪だけが問題視される處に性差別、セクハラの問題の根深さがある。冤罪は別の角度から問題があるが、こういふ形でセクハラの冤罪だけが取り上げられることに問題がある。セクハラ被害者の抑壓だ」。へえ、あんたも冤罪の被害者になつて見るかい? とも言ひたくなる。

ほとんどの男性が何も言はないが冤罪の被害者なのである。そしてそのセクハラ・フエミニズムが蔓延する中で、自分を僞ることを余儀なくされてゐるのである。以上の話は事實上の話であり、法文の細かい表記を持ち出して云ふのなら、詭弁である。それを言ふのは法匪である。